そりゃまあ僕も

20代会社員、男。音楽、カメラ、時事ネタなどの雑記日記です

母を捨てる決断をした話

人生は迷いと決断の連続だ
僕たちはたくさんの可能性の中から、今の自分を選びとってきたのだ

僕はこういうきれいな一般論があまり好きではない。

人生は景気のグラフみたいに迷いと決断が入れ替わり連続するものではない。
30年に満たない僕の浅い経験を振り返ってみれば、むしろ迷いだけがただひたすらに続くものではないか。少なくとも、僕自身はそうだった。
迷って迷って迷い続けて、たまたまやけくそになった瞬間を「決断」だと錯覚している。そんな人生だった。決断とは僕にとって、その場の錯覚だったわけだ。

もっとも、そんな錯覚をしてきたということは、こんな僕にだって自分で決断したと思えるような人生のターニングポイントがあったことになる。
そのひとつが「母を捨てる決断」である。
姥捨て山に不法投棄してきたわけではないから、それほど重い話ではない。
父と母の離婚話の折、自らの意志で父方を選んだというだけだ。
どこにでもある話ではあるが、それでも僕の人生の転機だったと思う。今思い返せばの話ではあるが。

 

母親が出て行ったのは、僕が小学校三年生の夏だった。
僕と、2つ下の弟が学童保育から帰ってきたあと、母親は僕たちと入れ替わりで家を出て行って、それっきり帰らなくなったのだ。
汗だくの体でリビングのエアコンの前で涼んでいると玄関で母親が出かける支度をする音が聞こえてきた。

リビングのドアから顔を出し、どこにいくのか尋ねたところ、
「ちょっと買い物にいってくる。あんたたちも来る?」と母親は応えた。
日が落ちる前の時間帯で外はひどく暑かったし、エアコンが効いた部屋から出たくなかった。留守番をしている、と僕たちは返した。

 

それが母親と僕が面と向かって会話した最後の瞬間だった。
その日以来、母親は帰ってこない。
家を出るときに母親がとりたてて大きな荷物を持っていたイメージはない。父親が後から荷物を送ったというわけでもない。母はただ家から出て行ったのだ。
ずいぶん長い買い物である。

 

父親が帰ってきたのは20時ごろだった。
母親がいっこうに帰ってこないので、買い溜めしてあったレトルトカレーを食べるか迷っていたところだった。
「お母さんは買い物に出かけてる」と父親に伝えた。そのときの父親の表情はよく覚えていない。
翌日の夜に、「お母さんはもう戻らないんだってさ」と父親に告げられた。

数日後、改めて父親と今後について話した。休日の昼間だったと記憶している。
子ども部屋からリビングに呼び出され、父は少し躊躇いながら僕ら兄弟に尋ねた。

「お前たちはどうする?お母さんについていく?」
父と母だけで、子供に見えないところでやり取りがあったのだろう。

僕と弟は間髪入れずに「お父さんについていく」と応えた。
弟と示し合わせたかどうかの記憶はない。
ただ、子どもながらに、「父親は家に住んでいて、母親は家を出たこと」「父親は仕事をしている、母親はパートタイムで働いていること」を天秤にかけたことは覚えている。父と母がもう一度暮らす選択肢が無いことはわかっていた。
そして、自らの環境を変えてまで、母親についていきたいとは思えなかったのだ。

 


以来、母には会っていない。
九州に住む母方の祖父母は、”子供を投げ出した娘”として母を勘当したという。
特に祖父のほうは昔ながらの妙に頑固なところ、感情的になりやすい気質があったためそういう流れになったのだろう。
祖父母は離婚後しばらくは手伝いで家に来てくれたり、僕たちも長期休暇で帰省することもあったが、そのうちに疎遠になってしまった。
祖父母がいるときには、できるだけ母の存在はなかったものとして扱われた。祖父母がいて、父がいて、僕と弟がいる。写真に写った誰かの顔を塗りつぶすように。

それからは父と弟の3人家族になった。
僕と弟は学童保育に通い、父は残業を早めに切り上げて僕たちに男料理を作ってくれた。それでも遅くなる日は、買い溜めてある冷凍食品を食べた。中学に上がるころには、自然と自分で料理を作ることも覚えた。
当然、育っていくにつれて父との軋轢などもあったが、それでもどうにか僕も弟も大学まで卒業させてもらい、社会に紛れ込んで生きている。
離婚後、何年かあとで父に交際相手ができたが、それでも3人家族なのだという実感があった。自分には母親という存在など、初めからいなかったと思うときすらあったし、今でも基本的なマインドとしてはそうだ。父と母の離婚は、履歴書に書くような生育の設定だとすら感じるときがある。

 

昨年、母方の祖父が死んだと、祖母から連絡があり、その際に久しぶりに母についての話題が出た。

何年か前から祖父は持病の悪化で入院しており、昨年の8月に亡くなった。
晩年の祖父は生来の偏屈をこじらせ、「葬式はいらぬ、戒名はいらぬ、死んだことを誰にも伝えるな」とわめいていたという。
彼の願いは聞き入れられなかった。祖母は、僕の母と二人だけでささやかな葬式をやり、四十九日が過ぎたこともあって僕に伝えてくれたのだという。

電話口で、祖父の偏屈をひとしきり笑い合ったあと、祖母はぽつりと言った。
「今でも、あんたのお母さんに会う気はない?」
「いや、無いわ。お金くれるなら考えてもええけど」と僕は返事をした。笑いながら応えた。そうか、と頷いたあと、祖母はそれきり母の話をしなかった。じいさんの墓参りだけでもしにいくよ、と言って僕は電話を切った。
母の居場所は知らない。ただ、まだ母は生きていて家族とつながっているんだな、と感心をした。僕が母無しで生きてこれたように、母も僕無しで生きていけたのだ。

 

電話を切ったあとで、自分は母親を捨てる決断をしたのだと気が付いた。
母親ではなく、父親についていく人生を選ぶ決断。
母親を捨てて、いないものとして生きていく決断。

 

そんな決断は、「お父さんについていく」と応えたあの瞬間に生まれたのではない。
では、いつ生まれたのか?
おそらく、僕が母親を捨てたと気が付いた瞬間にその「決断」が生まれたのだろう。
僕にとっての「決断」はその場その場で選び取る判断ではなく、過去に意味をつける行為だったのだ

 

父を選ぶ選択そのものは、僕が人生において当たり前のように通り過ぎてきた事実にすぎない。
幼稚園を卒業して小学校に入学し、その後に父と母が離婚して父方についていく。3人家族でなんとかやってきていく
江戸時代のあとに明治時代がくるように、これが僕にとって極めて自然な流れだったからだ。
もっとも、僕は父に養われて育ちながら、母に会い続ける選択肢だってあったはずだ。
しかし、結果として僕はそれを選ばなかったし、これからもおそらく選ぶつもりはない。

僕は母を捨てた。そう言い切ってしまうことで、僕の選択は決断となる。
人生は迷いと決断の連続ではない。僕にとっての人生はそうではない。
僕たちは迷い続ける人生の中で、ときどき過去を振り返る。過去に意味付けをして生きている。預金通帳を読み返すように。

そして目に留まったその時々のターニングポイントを「決断」だと思い込んで、自分の過去を肯定してなんとかやっていく。その決断は杭のように打ち込まれるのではなく、未来に向けて連続した指針としての決断である。

 

そう言い聞かせて、明日もなんとか迷い続けていきたい。

 

※父母の離婚については、以前にはてな匿名ダイアリーに投降した記事を元に書いています。
https://anond.hatelabo.jp/20180918233915
祖父が死んだ連絡を受けたのはこの増田を書いた一か月後くらいだった。墓参りにはまだ行けていない。