匿名ダイアリーでこんな記事が目についたので、ポケモンGOにハマってる僕のポケモンについての思い出話をする。
僕はポケモン本編をやったことがない。
初代ポケットモンスターが流行った頃、僕は学校低学年だった。
だから決して世代が違うわけではない。
単にゲームが嫌いな両親の方針により、僕はポケモンを買ってもらえなかった。
だから、ポケモンGOは僕がプレイする初めてのポケモンシリーズということになる。
3匹の中から1匹を選ぶことすら、先週の金曜日が初めてだった。
あの頃の話をしよう。
当時は、毎週木曜日の19時にポケットモンスターが放送されていた。
僕の家では食事中はテレビを見てはいけないルールだったから、ポケットモンスターの放送日は土下座する勢いで頼み込み、ご飯を早く作ってもらってたっけ。
次の日に学校に行くと、まずアニメの話題になり、それからポケモン言えるかなをどこまで覚えたか競い合った。
とにかくあの頃は、僕が見える限りの全世界がポケモンに熱中して、ポケモンを中心に世界が回っていた。
みんながポケットモンスターのアニメを見て、グッズを買い、映画に足を運び、そして僕以外の全員がポケモン本編をプレイしていた。
そんな中、僕はゲームボーイすら買ってもらえなかった。
先に書いた通り、両親の確固たる方針が理由である。
「親の目の届かないところで、子供が延々とプレイし続けるゲーム機なんて絶対に持たせない」
というのが、彼らの言い分だった。
"ゲームは反復作業を繰り返して簡単に快楽を得られるものであり、それに子供が熱中するのは当然のこと。ならば、せめて親が管理できる据え置きゲーム機に限定したい。"
僕がゲームボーイをねだるたびに、親はこういう主旨を我慢強く説明してくれた。
今思えば、単に経済的余裕が無かっただけかもしれない。
いずれにせよ、小学校の僕が見ていたポケモン中心世界とは異なるルールがが我が家には存在していて、その世界の方針によって僕はポケモンをプレイできなかった。
我が家のゲーム事情は同世代の友人と比較して、絶望的な状況だった。
僕の家にあったゲーム機はプレイステーションだけだった。
プレイステーションは子供のゲーム時間を管理したい親にとって、パーフェクトなゲーム機だった。
すなわち、親が本体を適当に踏みつけるだけで、子供のゲームを中断させることができるのである。
セーブ前に、本体上面のボタンのどれか1つでも押されてしまうと、全てが台無しになる。
子供としては親の機嫌を損なう前に、セーブをしなければならない。
また、同時プレイが2人までなので、家に来る友達の数を制限しやすく、ソフトとコントローラーだけでなく、メモリーカードも隠すことができた。
このようなハードの制限に加えて、
「1日1時間
」
「テレビはリビングのみ」「週末はゲーム禁止」
などのゲーム規制があった。
親とリビングでバラエティ番組を見ている間にも、クラスメイトはポケモンをプレイしていると考えると羨ましくて仕方がなかった。
そういう家庭事情があれば、当然ポケモンの話題についていけないときが出てくる。
「誰某が四天王を倒した」とか「何某がどこでポケモンを捕まえた」だとか、そんなプレイ状況の話が全くできなかった。
アニメの話にこそ混じることができたものの、それもせいぜい放送翌日の午前中だけ。
放課後が近づくにつれて、その日に誰の家に集まるかを皆が話し始める。ゲームボーイを持っていない人間は肩身が狭かった。
友達の家に行っても、誰かのゲーム画面をただ眺めるだけしかできない。
友達も初めのうちは快く見学させてくれていたものの、それがあまりに続くものだから次第に呼んでくれなくなった。
通信ケーブル要員にすらなれなかった僕を呼ぶ理由は、彼らには少なすぎた。
みんなとの話題に入れないことが寂しくて、僕は必死でポケモンのゲームのことを調べた。
両親はゲームこそ禁止していたけれど、書籍や漫画は比較的理解を示してくれていた。
古本屋で攻略本を見つけて親にねだり、ポケモンのステータスや出現位置を何度も読み返した。
コロコロコミックの早売りのお店を見つけて立ち読みして、友達がまだ知らない攻略情報を探した。
攻略本で得た知識と、友達の家で見学した画面の記憶を頭の中で照らし合わせながら、ポケットモンスターの世界を自分なりに想像した。
実際には十字キーを触ったことすらないにも関わらず、四天王やライバルと戦い、伝説のポケモンを捕まえる冒険を思い描くことは、端から見ればきっと滑稽だったと思う。
そうして得た知識で恐る恐る友達のゲーム話に混ざっていくうちに、攻略本ポジションとしてまた友達の家に呼んでもらえるようになった。
しかし、再び友達の家でポケモンを見学していて、僕はある違和感に気がついた。
ドット絵の世界は、自分の空想のそれより明らかに色彩に欠けていた。
友達とまた遊べるようになったことはもちろん嬉しかった。
だけど、
「目の前でゲームに熱中する友達よりも、もっと楽しくてワクワクする世界を自分は知っている。」
この小さな小さな発見は僕にとって、もっと大きな意味を持ったと思う。
「自分の心持ち次第で、自分はまだどんな世界にでも行くことができる。」
それからは前みたいに誕生日やクリスマスになるたびに、ゲームボーイを親にねだることも無くなった。
20代半ばになった今、僕は人生で初めてポケモンをプレイしている。
ポケモンGOはあの頃見学していたゲームよりもリアルで、そしてストーリー性や絶望的に欠けている。
ずっとポケモンをプレイしていた人にとっては、別物なのかもしれない。
それでも僕は、人生で初めてパートナーのポケモンを選び、それが拡張現実で表示された途端嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
街中にいる他のプレイヤーも、自分と同じような気持ちのポケモントレーナーだと思うと、不思議と親近感が湧いた。
何よりも、あの頃頭の中に描いた冒険を、自分の足で実感できることが嬉しかった。
僕はポケモンを通じてまた夢見心地になったり、仲良くなれそうな気がする。
そう、
そのはずだった。
最近はポケモンを厳選し続ける自分が、夢に描いたものも離れていることに最近悩んでいる。
なんだこれは。
こんなものがポケモンマスターへの道なのか。
ポケモンマスターってなんだ。攻略本には載っていなかったぞ。
Netflix火花お題「夢と挫折」
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